weekly business SAPIO 99/9/9号
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                                      クライン孝子 TAKAKO KLEIN
                                             

《60年かけてポーランドと完全和解したドイツの戦後外交に注目》


 しばらくドイツから離れていたので、今回はドイツ近況をレポートしようと思う。

 いよいよドイツではボンからベルリンへ首都が移され、9月1日から改修成った帝国議会議事堂=ライヒスタークで本格的な連邦議会活動が行なわれことになった

 ところで、この「1999年9月1日」という日だが、なぜこの日にボンからベルリンに首都を移して議会活動を行なう事にしたのか。

 一つは「ベルリンの壁」が撤廃されたのは1989年11月9日。今年はちょうど10年目に当たる。
 二つ目は、しかもあと数カ月で20世紀の幕が下ろされる。
 という理由のほかに、実はドイツではこの日、ポーランドとの最終的な和解を行なうことにしたからだ。

 なぜならこの日「9月1日」とは、ちょうど60年前の1939年、ドイツがポーランドに電撃奇襲戦をしかけ、約5年にわたって世界中を戦争に巻き込むことになった第二次世界大戦の火ぶたが切られた日に当たる。それゆえドイツは連邦議会をボンからベルリンに移すに当たって、この日、毎年ポーランドで行なわれている記念式典に戦後初めてドイツの大統領が訪れ、60年にわたったポーランド・ドイツ間のわだかまりに区切りをつけ、和解した。

 もっともこうした外交はドイツの戦後外交の特徴といってよく、とくに近隣諸国との謝罪を兼ねた和解には力を尽くしてきた。
 例えば対フランス外交では1984年、コール前首相が故ミッテラン大統領と共に、第一次世界大戦における独仏の激戦地ヴァルダンを訪れ、和解している。
 今回はドイツのラウ大統領夫妻がポーランドを訪問、第二次世界大戦の最初の戦場となったダンツイッヒで、ポーランドのクワズネツスキー大統領夫妻と固い握手を交わすことにした。

 さらに、9月3日(60年前のこの日、ドイツの奇襲戦に抗しイギリスとフランスが対ドイツ戦線布告した)、ポーランド・ブレキ首相の招きで、シュレーダー首相は2日間の予定でワルシャワを訪問。両国の今後のいっそうの友好関係(政治・経済・安全保障面)構築を確認し合った。
 とくにワルシャワでは、1970年戦後初めてポーランドを訪れ、ドイツ東欧融和政策路線によりポーランド外交に風穴を明けた当時のブラント首相に感謝するとしてブラント首相にちなんで「ヴイリー・ブラント広場」も作られることになった。

 というわけで、コソボ紛争で見せたNATOに密着したドイツ外交同様、近隣外交でもせっせと点を稼いでいるシュレーダー首相だが、反面、国内政治がおざなりになっている。せっかくポーランド外交で良い気持ちになって帰国の途についたというのに、9月5日に行なわれた二つの州選挙で大敗を喫したのだ。コール前首相から政権を引き継いで1年目、シュレーダー政権は国民からその“つけ”を突きつけられてしまった。
 まずはその選挙の結果について触れることにしよう。

 一つは南ドイツのザールランド州(14年間続いた社民党政権だったが、接戦の末、社民党44.4%=25席、対するキリスト教民主同盟45.5%=26席、残りの少数党は5%以下により議席なし、とくに緑の党は前回5.5%だったが、今回は3.2%に落ち込んだ)。
 今一つはベルリン隣接のブランデンブルグ州(社民党40.1%=37席、キリスト教民主同盟25.6%=24席、民主社会党=旧共産党23.3%=22席、ドイツ国民党=極右5.2%=5席、とくに前回54.1%と過半数を占めた社民党の落ち込みが目立った。その上、極右の台頭を許してしまった)。

 この敗北の理由だが、

1. かつてブラント政権は「東欧融和政策」、コール政権は「ドイツのヨーロッパ化」と、政権誕生と同時に確固とした信念で路線に向かってまい進した。ところがシュレーダー政権は、政権獲得1年過ぎてもなお、何をしたいのかその路線がみえてこない。イギリスのブレア首相と二人三脚で打ち出した中道路線=ニューレーバーも、労働組合の強力な反発に遭って立ち往生したままである。一方労働組合側も、従来のイデオロギーに則った“戦う労働組合”に固執し、出口が見えぬままジレンマに陥っている。
 したがって、押された方(=シュレーダー政権)にも押した方(=労働組合)にも、これといった国民を納得させる確固たるコンセプトがないというのが現状である。

2. 「ベルリンの壁」撤去後、イデオロギーの司令塔であったソ連が崩壊し、それまでその秘密主義によって神秘的とされた「鉄のカーテン」の向こうの実態が明らかになるにつれて、若者がそのシンボルとして支持してきた社民党や緑の党を見放してしまい、現実路線を打ち出す保守党にくら替えしはじめた。一方で、80年代、若者の血を騒がせ急速に支持者を伸ばしてきた“緑の党”は、今回の社民党との連立で、コソボ紛争における積極支援に見られたように党路線=反戦を踏み外すことになった。それゆえ従来の“緑の党”支持の若者の大半は棄権もしくは極右党支持に回ってしまった。

 ことが挙げられる。

 今後も、次々と重要な地方選挙が控えているだけに、シュレーダー政権にとっては、気が気でない。概してドイツ人は気が長い。少なくとも1期=4年はシュレーダーに政権を委ねる気でいるのだが……。

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