weekly business SAPIO 99/3/4号
□■□■□■□ デジタル時代の「情報参謀」 ■weekly business SAPIO □■□■□■□
                                      クライン孝子 TAKAKO KLEIN
                                             

◆都知事選も所沢ダイオキシンも世界は注目している◆


 この原稿を書いている週は日本滞在第2週目に当たる。
その間、東京だけにいては、東京のことしかわからないと、さっそく地方へも出掛けてみた。時間的な制限があるため、全国各地というわけにはいかないので、とりあえず、近畿と中部地方に足を延ばしてみた。結果、バブル不況の後遺症は、誰もこれという決定的な解決策を見いだせず、ただ漠然と将来に対する不安を増幅させていることを発見したことだった。

それはさておき、今回、私は有楽町にある外国人特派員記者クラブに足繁く出入りすることになった。そして、ふと日本の不況の要因の一つに、実はこうしたクラブのあり方と決して無縁ではないことに気がついた。

その外国人特派員記者クラブだが、一見して英国風に統一されている。案内装飾もそうだか、受付やレストランで働く従業員も英国風のマナーを心得ているように見える。レストランに置いてある一台のテレビからはリアルタイムでBBCニュースを流している。

しかもメンバーの大半はアングロサクソン系によって占められている。念のために受付で尋ねてみたところ、日本にこの種の外国人特派員記者クラブは唯一ここしかないという。
なるほどこの事実を裏返してみれば、日本がアメリカとイギリス経由の情報だけでよいとしていることが何となく分かる。はたして、それでいいのだろうか。

ユーロ情報だってそうだったではないか。
ユーロ実施まで日本で報道され続けた、イギリス仕込みの「ユーロ実現不可能説」の論調は見事に外れて?しまった。それを信じてユーロを甘く見ていた日本の円がゆらぎはじめている。
しかもユーロが実施されるやいなや、次に日本の巷間で流れているのが「ユーロ・ドル敵対説」である。

本当のところ、アメリカはユーロをつぶそうと思えば簡単にできた。それをあえてしなかった理由、実はこれこそ、戦後のアジア興隆にひと肌脱いだ日本を潰すことにあった。その円潰しのためにドルがユーロに手を貸していたのである。そして、したたかなイギリスはユーロ反対の姿勢を示しながら、参加すべきかどうか、様子をうかがっていただけなのである。 アメリカ・イギリスを中心にした情報を鵜呑みにしている限り、日本は不況という二文字に翻弄され続けるだろう。

その延長線上で、つい最近問題になった所沢産ホウレンソウ事件、東京都都知事選も浮上してくる。元を正せばこれらのすべても何らかの形で日本の不況とリンクするテーマであり、前者は環境問題、後者は構造改革といずれもグローバル的な要素を含む重要なテーマであることにはまちがいない。

ところが残念なことに、この二つのニュースだが、今回日本へ帰国して痛切に感じたことは、これらは諸外国にとっては非常に関心の高い重要なテーマにもかかわらず、なぜか日本のマスコミ界では、この問題を単に日本国内の問題として片付け、まるで海外はまったく関心がないだろうとでもいいたげな扱い方をしていることだ。

とくに所沢産ホウレンソウ事件に至っては、そのニュースの性質からして国際的ニュースとしてその価値は十分にあり、地球環境面からメスを入れれば、次は必ず日本の構造改革にまで迫るというのに、なぜかそれ以前のテレビ・メディア対活字メディアの内ゲバだけが浮き彫りにされ、スキャンダル・ニュースで終わらせようとしている。

 なぜそうなのか、一体その原因は何なのか、思いつくままに列記してみると
1) 日本のメディアの致命的な欠陥といわれて久しいが、視野が国内にばかり向いて狭いうえ、国際的な視点から日本の現状分析ができない。またその能力に欠けている。つまり、一体この問題を国際的見地からどう捕らえらればいいか、この問題とは一体どのような流れの中にあって、どう動いているのか。これは同時に将来いかなる結果を生むか、そのためにどのような役割を担いどう解決すべきなのか、その点が日本のマスコミ人間には明確に認識されていない。

2)日本のマスコミ人間は、ジャーナリズムに携わる原点=問題意識が稀薄なため、ついその場しのぎでしごとを仕上げる傾向があり、センセーショナルもしくはやらせの形でニュースを流してしまうという無責任体制を容認し、また要領よく切り抜けるのがいわゆる優れたジャーナリストとして評価されがちである。

その典型的な例が、所沢産ホウレンソウ問題だ。これは「ニュースステーション」で、久米宏キャスターがいかにも所沢産ホウレンソウ=ダイオキシンを連想する発言をしたために久米氏が謝罪するに至った事件で、要するに、日本のマスコミとは、日本の政治家の曖昧体質や護送船団式を批判するわりには、その実その政治家体質をそっくりそのままマスコミ自ら引きずっていることでもあり、これこそ日本のマスコミの盲点でもある。

 ではドイツのマスコミはこのような場合、一体どのような姿勢で対処するものか。
 主なものを二点挙げると、
1) ドイツでは、ある微妙な問題を抱えた事件を取り上げる場合(日本と同様事件の当事者については明確に現場の様子や当事者の行為など、人権に触れない範囲で公表することは許されている)、マスコミに携わる者は、視聴者や利益団体などから揚げ足を取られないように、実に綿密に調査し尽くした上で、放映する。

いいかえれば重要かつ微妙な問題を番組として取り上げる場合、スタッフの不勉強は絶対に許されない。ましてや簡単な謝罪で済むと思うようなキャスターではキャスターの資格なしと見て、直ちに番組からの降板を言い渡される。
つまり契約キャスターといえど、報道に携わる者は常に真剣勝負を挑んでいるのであり、ときには命懸けの取材に臨むことを厭わない。仕事に対して厳しさを要求されるのである。

2)ドイツのマスコミ人間は常にニュースに対し、どのくらい重要であるか認識し、重要なテーマであるとの判断を下したばあい、そのニュースに対しては、厳粛な姿勢でニュースに臨む。日本のように何でもかんでもセンセーショナルな扱いはせず、厳粛な報道姿勢で臨む。もちろん個人攻撃は極力避ける。

情報公開法についてはどうだろう。
日本のマスコミはまるで「知る権利」を徹底的に行使することこそがあたかも日本の民主化促進につながるような錯覚を起こしているが、幾度と無く繰り返される戦争の歴史にくたびれてしまった欧米諸国においては、国家が情報機関を持ち国益および外交上の「切り札」として使用する情報は、国家が管理をすることが基本にある。その上で、情報公開を行なっているのだ。

ちなみにドイツでは、連邦情報庁で6000人が情報収集・管理にあたっている。日本の場合、それに相当する機関が存在しない上に、案では国益を損なうような情報は非公開とするものの、どこまで公開するのかが曖昧だ。このまま情報公開法を成立しては、国家は国際政治において丸裸になる。もちろん、切実に公開を必要とする国民もその曖昧さが不満な点だと思う。

 手をたたいて喜ぶのは、日本と敵対関係にある周辺諸国なのは当然として、盟友と目されている国でさえこの曖昧さを、しめた、と思っている。マスコミは、こういう角度からの大事な視点も見落とすか、もしくは故意に視点から外している。じつは、当のマスコミこそが何をどこまで公開すべきかわかっていないのではないか。

憂慮すべきことだが、こうした姿勢が実に不自然でもなく、マスコミも容認し、その類いのニュースを流している。これでは日本のマスコミが世界の現実にまったく無知であることをいいふらしているとしかいいようがない。

 日本のマスコミが一事が万事そうだというのではない。
 ただ、一部にあるこうした日本の報道姿勢こそが、実は日本国民の視界を曇らせ、政治や経済の低迷に拍車を掛けていることはまちがいない。

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