weekly business SAPIO 98/8/6号
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クライン孝子 TAKAKO KLEIN
◆欧州中央銀行の本拠地となったフランクフルトの「歴史物語」◆
たかが人口66万人のフランクフルトがなぜ、欧州中央銀行の本拠地となったのか、なぜ、コール首相は、ロンドンやパリ、いやベルリンをも制して、フランクフルトを欧州金融中心の地にしようとしたのか。単にフランクフルトにドイツ連邦銀行があり、その連銀の戦後金融政策が成功したというだけのことだったのか。
実は、この町は古くから金融に深く関わり発達してきた町で、その歴史を抜きにしては考えられないのだ。
今回はそのフランクフルトの歴史に触れておこうと思う。
フランクフルトの町の歴史は、古くはローマ帝国時代、ローマ軍がこの町を攻めてきたころから始まったといわれている。もっとも今日のフランクフルトの町の原型は794年に始まった。
偶然とはいえ、ちょうど平安京還都と年にあたるというので、1994年の1200年祭は、フランクフルトと京都は合同で、記念式典を挙行している。
もっとも京都とフランクフルトは、似て非なる都市だ。京都が政治都市として発達したのに対し、フランクフルトは商業・金融都市として発達した。また京都は江戸幕府以後、政治都市としての機能をすっかり失ってしまったが、フランクフルトも、1871年ドイツ第二帝国成立から、第二次世界大戦敗戦直後まで、ベルリンに経済都市の機能を奪われていた。
しかし敗戦後、ベルリンが東西に分断され、ボンに首都移転が決まり、フランクフルトがアメリカの占領下におかれると同時に、再び経済と金融都市として復帰した。フランクフルトっ子に言わせると「人生、何が幸運につながるかわからない」という。
それはさておき、フランクフルトの歴史で忘れてならないのは、
1.すでに1240年から中・東欧諸国を視野にいれた世界最初でかつ最大規模の見本市が毎年秋に開かれていたこと。
2.1856年に帝国法『金印勅書』が配布されると、この町はドイツ諸侯による神聖ローマ帝国の皇帝を選出する帝国都市(その後『帝国自由都市』として格上げされた)として栄えるようになったこと。
3.この町にはユダヤ人が多く住み、時の権力者と癒着し、金融業を営んでいたことから、その後、金融の町として発展したこと。(ちなみに、最初ヘッセン侯国の宮廷御用職人として出発し、19世紀から20世紀にかけて、欧州に一大金融帝国を築いたロスチャイルド家もフランクフルト出身である)
4.フランクフルトでは、1585年9月9日、フランクフルト証券取引所の始まりといわれる有価証券取引所が誕生している。この時、82人の商人が地回で提案を出し合い9種類の通貨相場を決定した。かれこれ400年も前の話で、以後、彼らは皇帝や領主、諸侯など時の権力者を恥じ、植民地開拓たけなわのころには、海外企業投資家にも積極的に資金の提供や融資を行ってきた。
戦後もこの精神は引き継がれ、廃墟(第二次世界大戦では、フランクフルトは戦災で90%破壊された)のなかの1945年7月、ぼろぼろの服をまとった数人の痩せこけた証券マンが、現在の『欧州中央銀行』からさほど遠くないカイザー通り30番地の地下室に集まり、戦後最初の秘密会議を開いて、証券の町として出発することを誓ったのである。
その後は、ナポレオンの時代から新天地アメリカへ移住していったユダヤ人、ナチスの追放に遭って各地に散っていたユダヤ人をはじめ、東欧諸国から命からがら逃れてきた企業精神旺盛なバンカーたちが、フランクフルトに集まった。そして、ドイツ連邦銀行のフランクフルト設置(1957年8月1日)を機に、ようやく金融の町として体制を整えて、息を吹き返すことになったのである。
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発行 小学館
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