weekly business SAPIO 98/7/23号
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                                      クライン孝子 TAKAKO KLEIN
                                             

◆日本とは大違い!ドイツの株価がアメリカとともに伸び続ける理由◆


 私の手元に面白い資料がある。今から6年前、日本向けに翻訳された「国際情勢資料」特集で、平成4年12月8日(火)発行、監修は”内閣情報調査室・委託編集 内外情勢調査会”とある。

 それによると、まず”まえがき”として、 「ベルリンの壁が崩壊してから3年。ドイツは今、統一に伴う政治的、経済的、
社会的混乱の中で新しい国作りに悪戦苦闘している。英紙『フィナンシャル・タイムズ』は1992年10月26日、こうしたドイツの現状について『苦悩するドイツ』と題する特集を組んだ。」とある。

 コール首相についての評価は、「時代は明確な指導力を求めているが、コール氏はまさしくそうした指導力とは縁のない政治家である。彼は基本的にコンセンサスの政治家、言い逃れの達人であり、進行中の論議からおぼろげながら妥協の輪郭が表れるまですべての問題について自身の立場をあいまいにしておくタイプだ」となっている。

 さらにユーロ通貨統合については、「欧州統一通貨がドイツ・マルクに取って代わるという個別の問題では、反対派の方が明らかに多い。ドイツの財界ですら自国経済にとってのEC(=現EU)とその市場統合の価値について、一部で強まっている懐疑論に共鳴している」とある。
というわけで、当時英国のメディアがいかに反独ムード一色で固まっていたか、容易に推察できるというものである。

 それはさておき、今回は最近のユーロを通して、ドイツとアメリカの関係にも触れてみようと思う。

 汎欧州市場創設に向け、ロンドンとフランクフルトの両証券取引所提携プランを発表したのはこの7月7日。
 これを受けドイツの平均株価指数はその日のうちに6,000の大台を軽くオーバーし、その後、7月17日、終値6,147.87(前日比+53.85)をつけ、順調である。

 ちなみにドイツの平均株価指数だが、ここ10年の軌跡を辿ってみると、10年前の1988年7月1日はわずか1163.52だった。その後、93年10月8日は2,005.01、97年1月17日は3,001.37、97年7月8日には4,006.40、今年に入って3月20日には5,001.5の値をつけ上昇傾向にある。

 一方、ニューヨーク市場における株価も7月17日のダウ工業株30種平均の終値は9,337.98ドル(前日比+93.72)で、初の9,800台に成功している。

 ところで、このドイツの平均株価指数だが、よく見るとニューヨークの平均株価指数に足並みをそろえて続伸している。

 兜町東証が1989年12月29日に、最高値38,915円をつけて、大納会を開き1年の取り引きを締めくくったのを最後に、今では16,000円台を徘徊 している日本とは好対照である。

 その背景を探ってみると、これまでコール首相が機会あるごとに「アメリカほど我々ドイツ国民のために親身になって手を差しのべてくれた国はない。」というメッセージを送り続けていることでも明らかなように、戦後のドイツとアメリカの経済は二人三脚の関係にある。

 その返答こそ、今回のユーロ通貨実現に対するアメリカの―ユーロは米ドルと並び二大機軸通貨の一角を占め、将来的には競合の関係になるという予測を打ち消し、むしろユーロとドル間で相乗効果を生み、EUとアメリカ経済の繁栄を促す─という暗黙のうちの承認である。

 では、そのアメリカのドイツに対する恩とは何か、その恩に対しドイツはどのように報おうとしているのか、ここでは主なものを3つ挙げてみようと思う。

1.戦後、西ドイツは今回のユーロ通貨統合の土台となった政経分離の理である政治=ワシントン、経済=ニューヨークに準じ、政治=ボン、金融=フランクフルトを導入し成功したこと(註:1948年3月1日当時、ドイツ連邦銀行所在地に関し、英国とアメリカが対立、英国はハンブルグを主張したが、アメリカが斥け、最終的にフランクフルトに決定)。

 さらに48年6月20日には、アメリカ主導で、通貨改革を実施。敗戦の混乱とともにヤミと物々交換が横行していたドイツ経済に決別し、貨幣経済に切り替えたこと。そのお陰で、強いドイツ・マルクが誕生。そのドイツ・マルクを基盤に21世紀幕開けには、国内では、政治=ベルリン、金融=フランクフルト、EUでは政治=ブリュッセル、金融=フランクフルトというアメリカ流の政治と金融システムが、ドイツを通して欧州に定着することになった。

2.1948年4月3日アメリカは、ソ連による西欧への共産主義拡大封じ込めと荒廃した欧州再興にマーシャル・プランを実施、ドイツも5億4940万ドルに始まり以後3年間にわたって合計13億ドル(現在の価値に換算すると500億ドル=約6兆5000億円に相当)もの支援資金を受け取ることができた。

 この支援により、西ドイツはみごとに『奇跡の復興』を達成した。やがて冷戦が終焉すると、ドイツは早速この教訓を東欧諸国に対して生かし、例えばロシアに対し800億ドル(約11兆2000億円)もの支援に踏み踏み切った。

 3つめは、1948年6月から翌年5月までソ連が行なった「ベルリン封鎖で、ソ連は西ベルリンに通じる道路や鉄道を封鎖し、人口220万人を兵糧攻めに陥れようとした。

これに対してアメリカは、英国やフランスとともに『自由の町西ベルリンへ空の架け橋』と称して90秒に1機の割合で空輸作戦を展開した。食料品や燃料までその量は封鎖当時、1日に付き6トンだったものが翌年5月には1万2,940トンに上っている。

 その結果『西ベルリン』は、『陸の孤島』としてではあったが西側に所属し続け、遂に「ベルリンの壁」撤去へと進展した。結果「ドイツ統一」への道を明けたばかりか、ソ連圧政から東欧諸国解放、次いで東欧諸国のEU加盟やNATO加盟に手を貸す糸口を築いたのだ。
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