クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.64
   
欧州に広がる「死ぬ権利」制定


 (産経新聞  2009年6月30日「正論」より転載)
  

ナチスのくびきを超えて

 いきなり「死ぬ権利」(安楽死および尊厳死)といっても、戦後「生きる権利」に固執し、それを最優先するあまり、人間本来の生き方、「死」という極めて個人の権利に迫る死生観についてなおざりにしがちだった現代の日本人にとっては、当惑するだけで、ぴんとこないかもしれない。
 ところがドイツの連邦議会では、つい最近(6月18日)、この問題を正面からとりあげ、「死ぬ権利」を認めて安楽死および尊厳死を容認する「患者対処法」を成立させた。ただし、この法律の成立にあっては6年もの月日をかけた。何度も修正を加え吟味し、採決し直したうえ、最後に賛成317、反対233、棄権5で可決する念の入れようで、そのことも忘れてはならない。
 これには理由がある。
 かつてドイツは第二次世界大戦までのナチス時代、優生思想のもと、国ぐるみで大がかりな「安楽死計画」を企て、多くの障害者や難病患者を犠牲にした忌まわしい「負の歴史」、つまり前科があるからだ。そのため、戦後60年余が経たというものの、この問題に関してはタブー視する傾向が強く、刑法216条により厳しく取り締まってきた。
 それなのになぜ今回、この法律を成立させたのか。

高齢化で避けられぬ課題

 このニュースを知った知人の一人が、「これでスイスで死ぬ手間が省ける」と喜んだように、ドイツ国民の多くがこの法律の成立を待ち望んでいたからである。かくいう私も、還暦を迎えたころから「安楽死と尊厳死ならスイスでしよう」と決めていた。
 なぜスイスかといえば、この国は数十年前から、この権利を合法化している。欧州では他にも、オランダが2001年、続いてベルギーが02年、ルクセンブルクが08年に合法化している。しかし、これらの国には自国民への適用に限るとの規則があり、外国人であるドイツ人は受け付けてもらえなかった。
 その点、スイスは違う。
 スイスは他国に先駆けて、世界に「死ぬ権利」を呼びかけた。1998年、この制度を支える機関として、「デグニタス」という慈善団体を設立し、自国民のみならず、外国人に対してもその権利を行使する機会を与えている。
 会員制で、ユーロ(1ユーロ約135円)に換算して入会金125、年会費50を納め、死ぬに当たっては、外国人の場合、約7000支払うことになるそうだ。2008年現在の会員数は52カ国約6000人だが、ドイツが最も多く約3000人と半数を占めている。そのため05年、同団体はドイツ支部を開設しているくらいだ。
 そのオモテ向きの目的は会員の募集にある。しかしその一方で同団体は、その活動が人権問題に抵触していないかどうかを含め、たとえば、不正確な請求やずさんな遺体処理をチェックするなどクレーム処理の窓口となっている。
 さらに重要な活動の目的は、ドイツにおいて、「死ぬ権利」法の成立の実現を図るために連邦議会に働きかけることにあった。しかも、その延長線において、ゆくゆくは欧州連合(EU)の全体にまで「死ぬ権利」を拡大する狙いがあるというのだ。
 事実、オランダ、ベルギーなどに次ぐドイツでの今回の"安楽死および尊厳死容認法"成立の欧州におけるインパクトは大きい。これをきっかけにEU各国では、ともにこの問題を真剣に検討する動きが始まっている。高福祉を維持する欧州諸国では、国民の平均年齢が急上昇している今日、この問題は避けて通れないのだ。

≪対岸の火事ではない日本

 EU主要国の一つであるドイツの今回の「安楽死および尊厳死」容認はその起爆剤になる。だからこそドイツはあえてこの時期、この問題を取り上げて、法律の成立に奮戦したのだという。
 もっとも、安楽死や尊厳死の合法化にはリスクもつきまとう。悪用の危険性や犯罪の温床になりやすく、そのことを危惧(きぐ)する慎重論も根強くある。
 だが、重病患者の過度の延命措置は、本人の苦痛はもとより、家族にも精神的、経済的に大きな負担を強いる。そして、膨大な医療費の国庫負担は国家財政を揺るがしかねないのだ。
 その点では、日本も同じ問題を抱えていることになる。日本は世界一の長寿国である。世界保健機関(WHO)の発表によると、2007年の日本女性の平均寿命は86歳で、男女合わせた平均寿命も83歳という。それだけに、日本にとっても、「死ぬ権利」としての安楽死と尊厳死の問題は、対岸の火事として見過ごすわけにはいかないだろう。
 すでに少子・高齢化の問題は足元に火がついている。国家の緊急課題として取り組まなければ、あとの祭りになりかねない。そのためにも、重要な取り組みの一つとして「死ぬ権利」法の検討が迫られている。ドイツの今回の動きはその緊急サインではないか。どうもそんな気がしてならない。

to Back No.
バックナンバーへ