クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.53
   
  「そろそろ胸張って8月15日を迎えたい 」  
−日独双方に住む私の戦争史観はー  


 (産経新聞  2006年8月13日「正論」より転載)
  
 《思い出すハルビンでの混乱》

 「負け戦」がいかに悲惨であるか。1945年8月15日、6歳だった私は旧満州のハルビンでこれを体験した。当時、わが家は父が手広く事業をしており、暮らしは豊かだった。

 ところが、昭和天皇の玉音放送に接したとたん、様相は一変した。その日から売り食い生活を強いられ、やがて秋口になると、故国日本への引き揚げが始まったものの、持ち出しはリュックサック1個のみだったからだ。

 無蓋列車に乗ったが、途中で機関士が逃げ出し、長い列を作って線路沿いに歩き続けたこともあった。歩行困難になった顔見知りの老婆を置き去りにしたこと、野宿した夜、馬賊の襲撃があるという風評で若い母親が泣き出した乳児を絞め殺したことなど、今も思い出すことがある。

 当時の私は知る由もなかったのだが、これには前兆があった。玉音放送の6日前、米軍が広島に続き、長崎に原爆を投下した8月9日、ソ連も口裏をあわせていたかのように、日ソ両国間で締結した日ソ中立条約を「ヤルタ会談で連合国の要請を受けた」という理由で一方的に破棄し、対日参戦を布告、150万余の大軍を率い、戦車5000両とともに満州に侵攻してきたからだ。

 防衛に当たっていた関東軍は、不意打ちを食らって壊滅状態に陥り、ハルビンは各地から命からがら逃げてきた日本人避難民でごった返すことになる。父は「一家で自決」と軍刀に手を掛けたが、偶然居合わせた満州人がとっさの機転で軍刀を取り上げ、「必ず一家を無事日本へお届けしますから」と約束し、持ち去ったのを覚えている。

 ちなみに、満州と朝鮮半島で被害に遭った一般邦人は約155万人、死者数は約21万人だった。

 《より悲惨だった独の結末》

 一方、日本より約3カ月早く(5月8日)降伏したドイツの状況はどうだったのだろう。史実に目を通すと、より過酷な運命が待ち受けていたとある。

 東方では領土約3分の1が割譲され、ソ連および東欧諸国によるドイツ人強制追放や送還(主にシベリア)、移住とともに、ソ連兵や地元の住民による略奪、虐殺、凌辱が日常茶飯事化し、西方では米英軍の空爆で、首都ベルリンや「東方のベネチア」として文化都市の名をほしいままにしていたドレスデンなど、主な都市は木っ端みじんに破壊し尽くされたからだ。

 人的被害も日本の比ではなく、少なくとも約1200万人が避難民と化し、うち300万人は時期が極寒の2月だったことで、飢えと寒さで命を落としている。

 しかも戦後、米ソ対立が激化して冷戦に突入するや、東西に分断され、同じゲルマン民族同士、敵味方に分かれ冷戦の最前線で対峙(たいじ)することになった。ドイツが統一し再スタートしたのは、何と1990年、今からわずか17年前のことである。

 《評価できる両国の国際貢献》

 「勝てば官軍、負ければ賊軍」とはよく言ったものだ。敗戦直後の戦争犯罪人を裁く「極東国際軍事裁判(東京裁判)」や「ニュルンベルク裁判」が勝者による報復裁判だったことがそのことを如実に物語っている。

 戦勝国がおこなった原爆投下や大空襲、民間人や捕虜に対する非道な残虐行為については、国際法違反の疑いが濃かったものの、加害責任は追及されなかったばかりか、逆に正当化することで、敗戦国の痛みや悲劇は一切省みられることなく、意図的に隠蔽(いんぺい)し、タブー視し、封印しようとさえしてきたからだ。

 とはいえ、日独両国はともに、敗者に向けられたムチをものともせず、戦後の世界平和にひたすら貢献してきた。このことは世界の誰ひとりとして知らぬ者はいない。

 なにしろ戦後60年というもの両国は戦争終結への尽力と人道支援にのみ終始し、1度も自ら武器をとって戦わなかった。それだけではない。

 「負け戦」であるがゆえに、「あの戦争が日独による侵略戦争だった」と容認せざるを得ないかもしれない。だが、結果的に植民地からのアジアや中東、アフリカでの解放戦争につながったこと、日独両国はそれに間接的とはいえ、手を貸したことの事実を忘れてはならない。

 とりわけ日本人は有色人種であるがゆえに、アジアなどの民にとっては真の味方と映ったに違いない。そういう意味で、私たち日本人は8月15日の終戦記念日は、これまでのような自虐史観にとらわれることなく、大いなる誇りを持ち、胸を張って臨むべきではないか。少なくとも私はそう思っている。


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