クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.50
   
 今こそ「歪み教育」を正常化する改革を   
-間違った親の判断力是正が急務-


 (産経新聞  2005年12月24日「正論」より転載)
  
≪塾殺人事件で浮かぶ背景≫

大相撲の朝青龍は優勝インタビューの際、「大きな山を見ず、足下の小石を見て・・」と日本人を皮肉った。
この言葉は実にお見事!
今の日本人にあれだけのセリフを言える人が果たして何人いるだろうか。

塾の学生アルバイト講師による小6女児刺殺事件で、そう痛感した。
事件が塾という密室で発生したことで、犯行の手口にのみに焦点を当てていたのは納得できない。

なぜ、日本の教育の歪みを浮き彫りにしたんかったのか。
当地ドイツから観察すると、実は起こるべくして起こった事件のような気がしてならないからだ。

そもそも事件のルーツは「塾」の乱立にある。過熱する受験戦争や、学校教育が知識を偏重し過ぎ、詰め込み教育であるなどの批判に答えるべく文部省(現在の文部科学省)が学習内容を大幅に削減したゆとり教育にある。

ところが、当時の文部省のゆとり教育指導が不十分だったばかりに、学力低下を憂慮した父兄が、子供をしゃにむに「塾」へ送り込んだ。
とくに都市部で中学受験が一種のブームになり学習塾の需要が急増したのは親たちのこうした不安が背景にあろう。

≪子供を商品化する産業だ≫
これが教育の本質とはるかにかけ離れた本末転倒ともいうべき間違った教育であることは誰が見ても明らかである。
そういう意味ではこうした「塾」過熱に追いやった責任は文科省にある。

ちなみに「塾」とは「年少者に学問・技芸を教える私設の小規模な学舎」(大事泉)と辞書にあり、江戸時代の庶民の子弟が当時の識者である僧侶・武士・新官・医者から読み・書き・そろばんを習った
寺子屋はその原型だ。
いや五十数年前、私が高校時代、目撃した「塾」も、専門科目担当教師が、数人の生徒に自宅を開放して教えていた。

ドイツの「塾」もそうだ。例えば、息子がギムナジュームに通学していたころ、不得意科目をカバーするため夏休みを返上し、「塾」で特訓を受けたものだった。

教育とはあくまでも教育とは学校教育が主体で、その補助的な作業として「塾」は存在しているにすぎない。
それなのに、現在の日本における「塾」は学校教育と競合関係にあるばかりか、一部はすでに幼児期から教育の場としてそのライフスタイルを定着させていることだ。
しかもその多くは企業化している。
今回事件の舞台となった京進も、業種分類は「サービス業」であり、「京都・滋賀が地盤の小中学生向け集団指導主体の学習塾。海外事業も拡充 ドイツ・デユッセセルドルフにも一校ある」という宣伝文句で、大証二部に上場している株式会社だ。
地方紙に紹介された掲載記事のタイトルは「戦略商品ものがたり」で、ビジネスチャンスという文字まで踊っている。

その株価が事件直後、株式に売り注文が殺到し、株価はストップ安まで下落したまま売買が成立しない状態が続いているのは周知の事実である。

つまり日本では「塾」はれっきとした受験を対象にした産業なのであり、父兄とその子弟を有名校入学可能という美味しい「売り」により、「商品化」しているのだ。

≪「百年の計」の意味考える時≫

では日本ではなぜかくも教育がいびつに変質してしまったのだろうか。
あえて私見を述べさせていただく。

日本における戦後六〇年の”つけ“で、道徳なし、宗教観なし、偏差値一点張りでブランド校にのみ価値をおいた。
人格形成をすっかりなおざりにした精神欠落教育に狂奔した結果、教育を消費財とすることを恥とせず、むしろそのような選択肢こそがこどもの幸せに繋がる、そう信じこんでいる大人が多いからだ。
手厳しいことを指摘するようで申し訳ないが、こうした教育の歪みを正すには、何をさしおいても親の教育が急務なのではあるまいか。                                  

教育でこどもをミスリードして平然とし、一片の良心の呵責も感じない大人にこどもの教育を託すようでは、日本の未来は暗いといいきるしかない。
このままではいずれ日本の教育は破滅する。いやすでにその兆候が目前に迫っているのではないか。

教育には「百年の計」が必要という。
日本は敗戦六〇年このかた、GHQによる占領政策を民主主義という名のもと、ひたすら、日本弱体化教育に手を貸してきた。
その結果がこのあいさまである。

だが百年にいたるには、残り40年という年月がある。今からでも遅くない。日本国とその国民は、一致結束して、この日本の歪んだ教育を正すために、即大胆な教育改革に着手すべき時期にきている。
たとえ痛みを伴うことになろうとも。




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