クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.35
   
危機管理を国民教育に取り込め

- 人質事件にみる戦後教育の過ち -

 (産経新聞  2004年4月24日「正論」より転載)
  

≪被害者らの言動に違和感≫

 「戦後、日本ではいかに『平和』の美名の下、現実乖離(かいり)の教育に終始してきたか」。今回、イラク邦人人質事件の被害者とその家族の一連の動きを目撃し、ある種の違和感を覚えたのは私だけではあるまい。人質となった五人が未成年者一人を含む三十代の青年だったことで、「若気の至り」と解釈する向きもないではない。だが、それにしてはあまりにも無鉄砲すぎる。

 五人の無事を祈り、救出に奔走、無傷で解放されほっとしたそのさなか、彼らが揃(そろ)いも揃って「イラクでの活動続行」という意志を表明したときは、さすが物事に動じないドイツ人も多くはあっけにとられてしまった。

 「武装勢力に発言を強要されたのではないか」と勘ぐる者もいた中、「恐らくテロの手下でスパイに違いない。そのような不届き者に手を貸す必要なし」という極論まで飛び出したほどである。

 解放直後で、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に罹(かか)っていると医師に診断された者もいたというから、精神的に普通でない状態にあったかもしれないが、ドイツ人ならずとも欧州人の感覚としては理解しがたい発言で、非常識というしかない。

 とくに欧州ではスペイン・マドリードの列車爆破テロで多くの死者や重傷者を出したばかりで、各国とも人質を含めテロには神経を尖(とが)らせている。

 イラク戦争反対に回ったドイツでさえ、三月十六日にイラク復興の水道事業に当たっていた民間技術者らの車が襲撃された際、同乗していたドイツ人技師も一人が死亡。四月に入ってからも、在イラク独大使館警備の任務を帯びてアンマンからバグダッドに向かう途中だったドイツ内務省の対テロ対策班メンバー二人が殺害されている。

 ≪テロリスト利する軽率さ≫

 次に指摘したいのは、日本政府から再三、退避勧告が出されていたにもかかわらず、未成年者を危険地帯に送った保護者の義務放棄と怠慢もそうだが、こうした不測の事態において国と国民が一体となって救出に当たらなければならないというのに、平気で他人に責任を転嫁し、懸命に救出に当たる政府の揚げ足をとる関係者の無神経な言動が目立ったことだ。

 まるで示し合わせたと受け取られかねない被害者家族によるテロ犯人に擦り寄るかの発言と涙ながらの情緒的な懇願。さらに、それに呼応する支援団体による実に手際のよい、タイムリーな大規模デモ行進と迅速な大量署名運動展開。こうした動きはメディアを通して国内外に流されたことで、テロリストには「テロに弱い日本」という誤ったメッセージとなって伝わりかねないものだった。

 人質に遭った家族や親族の心労は計り知れないものがあり、その精神的苦痛は十分理解できる。だが、北朝鮮に拉致された被害者のように自らの意志に反し強制的に人質にされたのとは違い、彼らはこうした危険を百も承知で、身内を危険地域へ送ったはずである。それなのに、この奇妙な一連の行動はどう解釈したらいいのだろう。

 こうした軽率な行為が逆に人質解放を遅らせ、敵に手の内を見事に見透かされ、翻弄(ほんろう)されることになるのがなぜ分からないのだろう。

 ≪危機に翻弄される日本人≫

 ドイツではこのような場合、被害者やその関係者はメディアをふくめ外部の雑音には一切耳を貸さず完全にシャットアウトしてしまう。そして国に解決を一任するのである。結果については、「吉」と出れば良し、「凶」と出た場合でも、運命と自ら言い聞かすことで、素直に受け入れる。なぜなら、ドイツでは家庭、地域、学校において、日ごろから不測の事態における処し方を教えこみ、国民一人ひとりに、自己管理の術を身に付けさせる危機管理教育を徹底しているからだ。

 一方日本はどうか。多くはその辺、ナイーブである。テロにしてもそうで、「テロリストは国籍、援護機関、国連、NGO(非政府組織)など民間機関を問わず、標的を選ばない。あるのは冷徹なディール(対応)のみ」というテロ対策の方程式=本質がいまだに把握できていない。そのため、今回の事件のように、徒らに風評に振り回されて、パニックになりあわてふためいてしまう。これこそ、日本の戦後教育の欠陥(ツケ)といわずして何であろう。

 今からでも遅くない。この人質事件を契機に、一刻も早く、日本の戦後教育の過ちを是正し、危機的状況においても毅然(きぜん)として、巧みに危機を脱するしたたかな国民づくりの教育に真剣に取り組むべきではなかろうか。

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