クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.24
   私達は若者に夢を与えてきたか
−「こどもの日」に思う大人の責務

 (産経新聞  2003年5月5日「正論」より転載)
  
≪忠告に耳傾けぬ若者≫

このところ日本では暗い話ばかりがつきまとう。つい一カ月前、日本滞在中、遠出した帰路、人身事故に遭って電車が止まってしまった。飛びこみ自殺であるのはほぼ間違いなかった。失職したサラリーマンだろうか。そう思ったら一瞬胸がきゅっと痛んだ。

 たかが失業したくらいで命を絶つなんて、というのは日本のサラリーマンに対して失礼である。ドイツのように能力至上主義が通例となっている国と異なり、日本では戦後半世紀というもの、まじめに働きさえすれば右肩上がりの経済成長に相乗りを許され、そのレールに乗って高度成長期を支えてきた、これ人間の習性というもので、いきなりグローバル化とやらで社会の尺度が変わったからといって、そう易々と頭の切り替えなどできるはずはないからだ。中高年サラリーマンがその戦いに敗れ、路上に放り出された挙げ句、死の道へと急いでしまう気持ちも分からないではない。

 反面、次世代を担う若者たちの対策についても見逃してなるまい。とりわけ若年失業問題は深刻で、政府もこの問題について、このまま放置すれば日本力低下につながりかねないと、ようやく産業界と一体になり、若者たちの就労では一体どのような人材育成が求められ必要としているか、真剣に検討する取り組みが始まったという。これを別の表現でいいかえれば、従来の上意下達、学歴中心、年功序列、終身雇用の尺度では、到底若者の気持ちを会社組織=就職という枠に取りこむのは不可能で、根本的な解決の糸口にはならないということになろう。また若者もそんな陳腐な大人の忠告に耳を傾けようとしない。それどころか、つい気楽な生活を求めフリーターでもしてその日暮らしに明け暮れるのをよしとする。有り余る物質的な豊かさの中にどっぷりと漬かって育った今日の若者のライフスタイルであり生きざまである。

≪おざなり説法は届かず≫

 もっとも私は若者たちをこのようにした責任の一端は大人にあると思っている。本来なら日本の多くの若者たちに夢を与えるのが大人の責務である。それなのに、なぜか彼らは、従来の価値観を押しつけていさえすれば、若者たちは幸せなのだと思いこみ、その場限りのおざなり説法でごまかし、彼らの真の問いかけにホンネで答えようとしてこなかった。今その“つけ”が返されつつある。

 とはいえ、少しずつだが日本の若者に変化が起きつつある。例えばつい最近、三月末で東京大学を退官した建築家安藤忠雄さんの記念講演会に、若者を中心に希望者が殺到したという。聞くところによると安藤さんは高卒だそうで、にもかかわらず教授として東大に迎えられ、五年半におよび学生を前に講義を行ってきた。その東大といえば、明治維新以後、学問の世界はむろん、政・官・財界をはじめ、あらゆる分野に君臨し日本全国くまなく優れた人材を送り出し日本の盛運に一役買ってきた最高学府である。その権威の象徴である東大が、これまでと打って変わって、腕一本でしのぎを削り、戦い抜いてきた建築家安藤さんを教授待遇で登用した。この画期的な英断に若者たちは喝采(かっさい)したのだ。

 今一つは草の根サイドで若者たちが、これ以上大人たちには任せておけぬと、とりわけ政治分野で斬新な改革姿勢を打ち出し、立ち上がり始めたことである。

≪必要なのは激励と叱咤≫

 発端は例の北朝鮮拉致問題で、多くの罪なき日本人が北に拉致されて二十数年、日本政府や外務省は事件解決のために殆ど何もしてこなかった。その腑甲斐なさに思い余った被害者家族は国連にまで足を運び、その非を必死の思いで人権関係者に訴えた。その立派な立ち居振る舞いと勇気に若者たちは心を動かされたのだ。

 彼らには、従来のような独善的ともいえるイデオロギーに凝り固まり、突っ張るだけの運動には全く関心がない。あくまでも国際的な見地に立って世界を直視し、日本の行くべき道を探り、国際的に通用する「日本起こし」を行うという。

 はからずも、その若者たちと渋谷のハチ公前の溜まり場で、あるいは「拉致被害者を救う会」の集会で出会った私、彼らの抱負を聞いて、思わず「それ、その意気」と合いの手を入れたものだ。そう、日本の将来を背負って立つのは彼ら若者たちなのである。今日この「こどもの日」とはその若者たちに大人たちが精一杯「頑張れ」と激励叱咤する日。大人たちはそのことをしかと念頭におき忘れてはならない、そう私は思う。


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