クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.19
  「ゆとり教育」の行く末が心配だ
―独の銃乱射事件から学べ―

 (産経新聞「正論」2002年5月23日より転載)  

(根無し人間創出する恐れ)

 今年四月から日本の国公立校ではでは新学習指導要領のもと完全週五日制を導入し「ゆとり教育」が実施されることになった。文科省はその基本的な狙いとして「自ら学び自ら考える力など『生きる力』の育成にあるとし、具体的実証例として教育内容の厳選を挙げ、総合的な学習時間の創設を促している。だがその実この「ゆとり教育」では教科内容と授業時間数の減少のみが目立ち、なぜ今回「ゆとり教育」に踏みきったか、肝心の教 育理念について今一つ明確さに欠ける。そのゆえ教育の現場では多くの教師は、かなり困惑していると聞く。こんなことでは「ゆとり」という名の時間余りのみが先行して、いたずらに怠惰で根無し草人間の創出に手を貸すことになりはしないだろうか。

 この対称軸にあるのがドイツの教育である。戦後日教組の指揮下にあって、知能偏差値が一定水準より低い子どもたちに焦点を合わせ厚遇する悪平等教育を浸透させてきた日本では、理解し難いことだろうが、実はドイツは伝統的に能力別=進路重視型教育システムを実施してきた国である。全員揃って同じ学校で学ぶのは小学校四年生まで。五年生からは職人、中間事務職、エリートと三つのコースに分かれて学習するからだ。

(勉強しないと落第や退学)

 ここでは日本と違い多くは授業料無料で入試のないのはいいのだが、その代わり在学中、しっかり学習しなければならず、そうでない生徒は、容赦なく落第や退学や不合格扱いになる。とりわけ大学教育と直結し、将来リーダーとして上に立つ者を育成するエリートコース=ギムナジューム(日本の中学・高校一貫に相当)では、知・徳・体育の三拍子教育を徹底しており、そのどれ一つ欠いても、卒業資格を与えてくれない。というわけで、学校は、この教育方針に反した生徒に対して実に非情である。

 四月一九日正午、旧東独エアフルトのギムナジュ―ムで発生した乱射事件がまさにそうだった。犠牲者十六人中、十ニ人が教師だったことから動機は教師への怨念と見られている。犯人はこの学校に在学していた一九歳の青年で、最初の卒業試験に失敗した上、二度目は出席日数不足だったため、病気を理由に医師診断証明書を偽造し学校に提出したところ発覚し即退校処分となった。事件がこれ以上の惨事に至らなかったのは、十三人目の犠牲者となるはずだった歴史教師(六十歳)が「殺すなら、僕の目を見て殺せ」と凄み、ひるんだすきに近くの空き教室に閉じ込めけたからで、犯人はそこで自殺している。
 ところがこのドイツの事後処理がまたドライなのだ。少しは犯人への同情があってもよさそうなものなのにそうならない。暴力にパルドンはないというわけで、犯人はしょっぱなら精神錯乱者として扱われ、事は粛々と運んでいく。犠牲者を痛むために、直ちに国旗を半旗とし週末に予定されていた行事はすべて中止、週明け月曜日には事件発生の時間に合わせ全国いっせいに五分間黙祷を捧げる。

(惨事後もすぐに授業を再開)

 同時に首相を筆頭に大物政治家はもとより、全国からケアに携わる教会関係者や救援隊が続々と現地へ駈け付けサポートする。州首相に至っては「被害者とその家族の方々には存分の対処を行っていきたい」と約束する傍ら、「人生は継続していくもの。惨事が生じたからといって授業を中断させてはならぬ」と学校は月曜日から平常通り再開すると宣言した。、作家曽野綾子氏の言ではないが「人間は放っておけば、どれだけでも鈍感に残虐になる」のを避けるため、毅然としてことに当るという。加えてドイツにはナチスという暴力を許した血塗られた歴史がある。それだけに、この反省に則り暴力は一切封じる。その決意の現われでもあるのだ。

 これに比べて日本はどうか。 昨年六月大阪の池田小学校で起こった児童殺傷事件を思い起こすがいい。あの事件では言葉狩りを気にして、犯人は『学校への恨みを持っていた男』という言い回しで扱われた。「あの日以来、我が家の時計は止まったまま」という犠牲者の父兄に配慮し学校は二学期から再開した。、子どもたちの「心の傷」を癒すため六億円もの大金を掛け校舎を建て替えた。この詰めの甘さ、玉虫色的アイマイさ! 今回の「ゆとり教育」してもそうで、どうもこの延長線上にあるような気がしてならない。こんなことで一体、文科省は、本気で「ゆとり教育」が成功すると思っているのだろうか。

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