クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.15
「靖国代替施設」は要らない
「懇談会」の議論を白紙に戻してやり直せ

  (産経新聞平成14年8月13日掲載より転載)  
≪アイデンティティを否定≫

 昨年十二月に福田康夫官房長官の下に設置された「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」において、国立戦没者追悼施設の新設構想が検討されつつあるという。私はあたかも日本のアイデンティティを否定し、その根幹を揺るがしかねないこの構想には反対である。懇談会に名を連ね真剣に討議を重ねておられる有識者に水を差すようで誠に申し訳ないが、全(すべ)て白紙に戻し、施設が必要か不要かの論議からやり直すべきである。

 恐らく、この構想は昨年来の小泉総理による前倒し靖国参拝騒動が尾を引き、日本政府としては大事をとって靖国神社に代わる施設を作ることで、今も戦前の対中政策に拘泥し、日本を責めるに急な中国や執拗(しつよう)な反日政策を展開する韓国の圧力をかわし、なだめにかかろうとしたに違いない。だが日本はれっきとした独立国であり、従って追悼の主役は日本国民であることを忘れてはならない。

 その日本国民が、何ゆえに中韓両国にのみ気がねしてこのような施設を作る必要があるのか。何よりも彼らの圧力に屈して作った追悼施設と知ったなら、一体どこの国の人間が心から参拝する気になるだろうか。それでなくても米国防総省内の一部には「靖国神社に参拝せず、自国の戦没者に敬意も払わない日本の首相の言うことなど信用できない。本気で国を守ろうと思っているならば、戦没者追悼を軽視するはずがない」と断言する者もあると聞く。そのためにも日本は断じて一部の国の圧力に屈し、空虚な追悼施設を作ったという印象を世界に与えてはならない。

≪「靖国の霊」に無礼千万≫

 靖国神社は明治天皇の勅命で近代日本の夜明けとなった明治維新前後、国のために命を捧(ささ)げた人たちの霊を慰めるべく一八六九年に建立された。以後実に一三三年もの間、戦没者追悼の象徴としてその中心的役割を果たしてきた。その歴史と伝統をないがしろにした薄っぺらな追悼施設建設では、日本人自ら日本の歴史を汚し、誇りを捨てたことになる。

 第一、明治維新このかた第二次大戦に至るまで、国家の存命を念じて戦い、尊い命を落とし靖国神社に祀(まつ)られてきた死者に対し無礼千万である。さらに、靖国神社は第二次大戦直後、あわや消滅の運命にあった。敗戦直後、日本に進駐した連合国軍の大勢は、「靖国焼却すべし」という意見で占められていたからだ。

≪「靖国」の危機救った独人≫

 その険悪ムードのさなか、当時駐日ローマ法王代表バチカン公使代理だったピッテル神父が、占領統治の最高司令官マッカーサーに、「いかなる国家も、その国家のために死んだ人びとに対して敬意をはらう権利と義務がある。もし靖国神社を焼き払うとすれば、その行為は米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残ることであろう。歴史はそのような行為を理解しないに違いない。我々は、国家のために死んだ者は、全て靖国神社にその霊をまつられるべきとする」と強く進言した。

 ちなみに、この進言で靖国神社の危機を救った神父は、ドイツ人である。彼は第一次世界大戦の勇士で陸軍中尉、敗戦後聖職の道を選び昭和九年から日本に滞在していた知日家。日本と同様第二次大戦において祖国が敗戦の憂き目に遭ったなか、敗戦国の国民である前に、神に仕える謙虚な一人の人間として、勝者に向かい毅然(きぜん)としてこのような勇気ある発言を行い靖国神社を救った。本来ならその恩義に報い、手篤(あつ)く靖国神社を遇するのが日本人としての義務であり筋道ではなかろうか。

 ではかくいうドイツはどうなのか。この国は一九九〇年東西ドイツ統一前まで、国サイドの戦没者慰霊の施設を持たなかった。いや持てなかったというのが正しい。それゆえせいぜい地方サイドでひっそりと戦没者追悼を行うしかなかった。

 ところがドイツ統一後、ベルリンが再びドイツの首都として返り咲くや、さっそく国は九三年、通称「新哨所」を中央追悼施設とした。この施設は靖国神社より約五十年早い一八一六年に建立され、ナポレオン戦争に始まって第一次大戦、そして第二次大戦後は東西ドイツ分断の東ドイツ、そして統一後と、時の政治を反映して目的や真意は違いこそすれ、戦没者のための追悼施設として生き続けてきた。

 国の歴史には必ず「陽」と「陰」、「光」と「影」がある。戦史もそう。追悼施設とはそれら全てを包括して存在するものでなければならない。靖国神社がそうで、空っぽの新国立追悼施設とわけが違う。というわけで、新追悼施設建設に私は絶対反対である。

to Back No.
バックナンバーへ