クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.12
「表現の自由を侵害している人が、その自由を主張する不思議」    

「個人情報保護法」や「人権擁護法」における日本のメデイアの反対ぶりにはどうも今一つ納得いかない。とくにメデイア界ではこの法案を「メデイア規制法」と名づけ、目の敵にして、何が何でも反対するという。そういえば、ある日本の女性から届いたメールによるとこの、「法案」では作家城山三郎氏がその反対の旗振り役を引きう受けておられるという。そしてこれに関する報道で、「ニュースステーション」に出演し、「今回この法案が成立したら、賛成した人の名前を石に刻んで、後世に知らしめる」と、画用紙で作った手作りの石碑の見本を持参して息巻いておられたとか。

 私はこの話を知って、思わず「えっ」と耳を疑ってしまった。城山氏は「高齢だし、しかも戦前・戦中の時代を体験し、治安維持法という戦前の法律をご存知だから、この法律に反対される気持ちは分からないではない」という意見もあるにはある。 だが、私はこれこそ放って置けない発言だとおもった。なぜか。、こんな乱暴な発言をするようでは、氏自ら表現の自由を犯していると見られてもしかたがないからだ。。ある事柄、(ここでは法案といっていいのだけど)の検討段階で、賛成か、反対か、個人の意見をのべるのは自由で、そのためにこそ議論の場が設けられるているはず。それなのに、自分の意見に逆らったからとその人の名を石碑に刻むなどとは、言語同断、まさに言論フアッショといっていい。

 確かに一方ではモノ書きの分際でこの法案に反対しないのはおかしいという指摘がある(ことも知っている)。しかしモノ書きだからこそあらゆる観点からモノを見て批判することが許されるのだ。またそうでなくてはモノ書きではない。
 今回の法案もそうで、ここドイツからこの論争を見ていると、どうも言論界の反対論は感情的すぎて自分勝手に見えてならない。自分たちは報道の自由を主張してやまないけれど、では一体あなたたちの報道姿勢はどうなの? 表現の自由を笠にきて、人権など平気でふみにじり、ろくに調べもしないで、これと思う人物を餌食にし、テレビで垂れ流したり、活字にして、平然としているのは、実はあなたたちメデイア人間ではなかったの、と、つい問いかけたくなるからだ。

 今一つは城山氏のようにこの法案を戦前の治安維持法を例に反対というのは、古臭い。カビの生えた畳をお蔵から出してくるのようなもので、、時代錯誤で的外れもいいところで、これこそ世界オンチ、世界を知らなさ過ぎるといわざるを得ないからだ。戦後、日本はアメリカにおんぶでだっこだったから、ピンとこなかったかもしれないが、戦後の世界は米ソ対立の中で、何が手強かったか。そして恐怖だったかというと、実は日本の多くの識者たちがすぐ何かというと弁護したがる左翼によるメデイア弾圧だからだ。旧ソ連や旧東ドイツでは、このためさんざんな目に遭ったジャーナリストがわんさといる。その手口がまた、巧妙かつ狡猾で陰惨だった。「こいつは体制にとって危険人物」と睨まれたら最後、出口はない。、回りをスパイで固められ、ぐいぐい締め上げられる。しかもスパイはプロのスパイだけではない。友人や知人はもちろんのこと、肉親、例えば妻であったり、子どもであったり、親であったりしたこともある。挙句の果て誘拐され拉致され逮捕され監禁され、シベリア送りになったり、殺害される。

 日本人にはこうした戦後の熾烈な経験がないものだから、その恐さがわからず、つい戦前を例に、やみくもに個人情報保護法や人権擁護法に反対しようとする。本来ならこれらの法案はその名の通り、自分の身を守る唯一の法律でもあるはずである。、それなのに、今、日本ではこの法案が一部の人達によって矮小化されようとしている。昨年の九月十一日のあのテロ騒ぎ以来、こうした法律は、国民の生活を守るために、より必要になってきているというのに…・

 それに、欧州連合ではこういう法律の整備のない国とは、安心して情報交換できない、従って協力などできないと広言さえしているという。
 日本とは、本当に訳のわからないというか、筋の通らない人が多い国である。城山氏をはじめこの法案に反対している人たちも含めて。国際的な見地に立って、モノを見るのが苦手だからだろうか。残念である。


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